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開くボタン

エレベーターに先に入ると、私は、次の人のために「開く」ボタンを押して待ってあげています。これが次の人へのマナーだと考えるためなのですが、それと同時に「お礼」を言われた時の、ちょっとした「幸せ感」が好きということもあります。

もちろん、私も他の人にエレベータの扉を開けてもらうと、とても嬉しいですし、感謝もします。ほんの一瞬ですが、そんなちょっとした心の機微が、人を幸せにしてくれるものだと思います。

でも、これは誰のために行っているのか…?

気が付いてみると「自分のため」になっているような気がします。

自分が「幸せ感」を得たいがためにやっている気がするのです。

実は、良くあることですが、折角優しい顔で扉を開けておいてあげたのに、何食わぬ顔で入って、何も言わずに「閉まるボタン」を押された…。そんな

経験、皆さんもお持ちではないでしょうか?

私の場合には、心の中の葛藤がそこで起こります。

1.「折角、開けてあげたのに、一言ぐらいお礼があっても良いのでは?」

2.「でも、もしかしたら僕が開けてあげていたことに、気が付かなかっただけかもしれない。」

3.「(自分自身に対して)お礼を求めてやっていたのか、お前は?」

4.「なんてサモシイ男だ!」…。

毎回、ほんの数秒の間にそんなことを考え、最後には自己嫌悪です。

こんな思いをするくらいなら、誰が入ってこようとも「知らん顔」しておけば良いという意見もあるかと思うのですが、不思議とそんなことはできません。人とは「相手に優しくしてあげたい…」そういう気持ちを自然に持っているからでしょう。

何がいけないのでしょう?

よくよく考えてみると、優しさのコミュニケーションを求めている「期待感」がいけないのです。エレベータの入り口のほんの一瞬の出会いに「会釈」「ほほ笑み」「感謝の言葉」があるだけで、人は幸せになれるのです

が、でも、それが得られないからといって、不機嫌になるのは、こちら側の「言い分」です。

相手の人は「考え事」をしているかもしれないし、こちらがボタンを押していることに気が付いていないのかもしれないのです。ですから、勝手に「失礼な奴だ!」といった感情を持つこと自体、やっぱり恥ずかしいことのように感じます。

相手に優しくしたいという感情は、他の動物にもあるようです。

そんな神様のくれた「最高の贈り物」に、見返りなど求めてはいけない、相手の人が幸せになってくれること自体で、自分も幸せな気持ちになれば良いのです。それで、十分。感謝の言葉など、あれば嬉しいだけで、それがなくても「エレベータに入れて良かったね!」という感情だけで、次は何も求めないようにしなくてはいけないと、我ながら反省をしています。

誰しも、目の前の人が困っていたら助けたい、幸せになって欲しいと思うのです。ありがたいことに、私もその「一人」です。

島崎ふみひこ

異文化コミュニケーション研究所(R)

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