コラム

第69話 国歌を歌う人々

始めに誤解されないように言っておくが、私は愛国主義者ではあるが、国粋主義者ではない。ごく一般的な日本人だと思っている。

意味は理解していなかったが、小学生のときから、入学式や卒業式には何の疑問も持たずに「国旗掲揚」。そして「国歌斉唱」をしてきた。

一昨年前、日本の国旗、国歌が法律で決まったらしいが、なんとも「間の抜けた」話だ。つまり、それまでこの国には、国旗さえ正式になかったことになる。

法律で定めてある、なしにかかわらず、オリンピックでは「日の丸」を掲揚していたし、金メダルをとったときの「君が代」には、国民中が感動していたではないか。

本音と建前。つくづく進歩のない国民性だと感じる。

近年、いろいろな学校で「君が代」を歌わない傾向があると聞くが、自分の国のことを想う気持ちを持たない子供たちを育てて良いのだろうか?

第二次世界大戦前後に、日本のやったことに対しての反発だろうことは容易に想像がつくが、当時の亡霊に魂を奪われてしまったとしか私には思えない。

子供が、親に向かって
「あんたは、昔悪いことをした。だから、そんな親のつけた名前をぼくは拒否する。大体、ぼくは自分の名前を産まれてこの方、『これで良い』なんて一度も認めたことがない。ましてや、あんたみたいな親と同じ姓を名乗るなんて言語道断だ。」
….と、叫んでいるように見える。

私には、現状があの愚かな「文化大革命」と同じように見えて仕方がない。(是非、集英社発行の『そうだったのか!現代史』池上彰著の第9章を読んでみてください)

この辺の話しになると、イデオロギー問題と絡んでしまいそうなので、この当たりで止めておくが、なんで私がこの話題をここで持ち出したかというと、アメリカで生活すると、かならず何度かアメリカの国歌を歌う場所に遭遇するからだ。

「君が代」のように、低音からじっくり歌う曲では、歌い始めに楽器の演奏が大きく聞こえるが、アメリカの国歌は、“Oh! Say, can’t you see!”とはっきり言葉(メッセージ)が聞こえてくる。

野球の試合開始前、特に大リーグでは有名だが、音量のある黒人女性が感情を込めて歌っている姿は、圧巻だ。

そして、それは特別な場だけではない。
私が留学をしていた頃、ダウンタウンにある公会堂で演奏会が催された。友人に誘われて、それを聴きに行ったときのこと。その開演の前に、そこにいたすべての人、全員が立ち上がり、なんと、大きな声で国歌を歌ったのだ。それも、胸に手を当てながら。

自分の国に誇りを持っている様子が目に見えてわかった。
私は、感激した。

アメリカの国歌は、アメリカが独立を勝ち取るときのエピソードを元にしている。イギリス軍の猛攻撃にさらされても、要塞が無事だったことを称えた歌だ。そりゃ感極まるものがあるだろうが、既に100年以上も前の話だ。

アメリカ史の汚点である、ベトナム戦争の話がでると、若いアメリカ人でさえ、顔を曇らせる。しかし、だからと言って国歌を歌わないとか、国旗を掲揚することに反対する者はいない。
本来、これが当たり前なのだ。

どんなに忌み嫌う過去があったにしても、日本もアメリカも民主主義であり、主権は国民にあるのだ。自国を拒否しても、否定しても、何も得るものはない。

アイデンティティという言葉が一時期はやったが、留学中に、国家にしても、個人にしてもアイデンティティが何かを考えるのもいいのではないか。

P.S.
傷ついたアメリカ人の心が早く癒されますように。
そして、報復が報復を呼ぶ愚かな戦争になりませんように。
世界中が、平和になりますように。心から祈ります。

[2001年10月4日発行]