お知らせ

異文化コミュニケーション的交渉術(裁判)

キリスト教や、イスラム教のように、ただひとつの神を信仰する宗教を『一

神教』と言いますが、その人たちは、判断を神に委ねることをよくします。

アメリカで生活をしていた友人が、借家の修理を家主に依頼したところ、意

見が食い違いトラブルになって「裁判」になってしまったことがあります。

日本でなら、まずはいろいろと話し合いをした上で、解決しない場合に裁判

を行いますが、そのアメリカ人の家主は大した交渉もせずに裁判に話を持っ

て行ったそうです。

裁判の当日、裁判所の前で遭遇したそうですが、「喧嘩腰」かと思いきや、

ニコニコと握手を迫ってきて「元気にしていますか?」と普通の会話をしに

きたというのです。

私の友人はとても驚いておりました。

その裁判の結果まで私は記憶していないのですが、友人はそのままその家で

暮らしていたので、穏便に解決したのだと思います。

『一神教』を信じる人たちは、最終的な判断を「神」に委ねることをする傾

向があるように感じます。

お互いに自分が「正しい」と主張し合う場合、客観的で絶対的な「神」の存

在があれば、平穏な気持ちでいられます。判断は「神」に決めてもらえばよ

いのですから…。

『一神教』の人が多い国における裁判の場は、そのような「場」に近いと考

えているように感じます。どうもそこには「愛」さえ感じます。

アメリカのテレビ番組に公開裁判(?)的なものがありますが、番組の演出かも

しれませんが、まさにそこには「愛」を感じます。

そう考えると、角と角を突き合わせる場でも、お互いに冷静にいられます。

『裁判所』のことを英語で”court”と言いますが、その言葉には、宮廷、御殿

という意味があったり、テニスコートといった使い方をすることから、私た

ちの持っている「裁判」対するイメージとは異なったものを彼らは持ってい

るのかもしれません。

「裁判」が必要な場になっても、恐れず「愛」をもっていること、そして正

義を尽くした後は、判断を委ねる気持ちでいれば、結果を受け入れやすいか

もしれません。

島崎ふみひこ

異文化コミュニケーション研究所(R)

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