コラム

第86話 自由で平等な国

私たちはアメリカに、自由で平等な国という漠然としたイメージを持っているが、日本人はこの二つの言葉を本当は理解してはいないと思う。

私のPCに入っている「小学館のBookshelfの和英機能」を使って、まずは、この『平等』の意味を調べてみた。すると、”equality”,“impartiality”の二つの言葉が書かれている。

“equality”は、「均等」
“impartiality”は、「公平」だ。

同様に『自由』を調べると、やはり二つの言葉が出てくる。

“freedom” 「束縛からの自由」と
“liberty” 「選択の自由」。

つまり、私たちは漠然と「自由と平等」という言葉を使っているが、実はその気持ちはかなり『いい加減』で、本来の意図も理解しないまま、都合に応じて使い分けている可能性があるということだ。

そして、一般的に冒頭に書いた私たちが漠然と持っているアメリカのイメージ「自由と平等」は言い換えると、ほとんどの人が多分『(結果の)公平と、束縛からの自由』だろう。

しかし、本来は『(機会の)均等と、選択の自由』が正しいのではないだろうか?

イギリスから独立を獲得したアメリカに、フランスから贈られたあの有名な『自由の女神』。ヨーロッパからの移民船が、ニューヨークへ入るときに、疲れた体を横たえながら見上げた、新大陸への『憧れと希望』の像。

その『自由の女神』の英語のでの名称をもう一度思い返して欲しい。

Statue of Liberty ….だ。
けして、Statue of Freedom ….ではない。

イギリスからの独立、「束縛からの自由」を獲得したことに対しての祝いの品ではなく、「選択の自由」を与えられたことに対する賛美があの像には込められているのだ。

この意識の違いは、かなり大きなものだと思う。

『(機会の)均等と、選択の自由』とは、けして生易しいものではない。アメリカでの自由は、生れたときから一個人として「独り立ち」することから始まり、すべてに対して『自己責任』が背景にあり、自由奔放で無責任を意味することではない。

アメリカの平等は「結果の平等」ではないのだ。

「独り立ち」とは、誰も保護してくれないということだ。

日本では、大人でさえ独り立ちできていない。リストラされて自殺をする大人を見て子供たちは何を感じるのだろう?たしかに、不当解雇でストレスを感じる場合もあるし、職の流動性に欠けている日本では不安で死を選んでしまう気持ちも分からなくもない。

しかし、会社が一生面倒をみてくれるなんて妄想だ。
会社で利益を生むことができれば、会社はその人間を解雇することはないはずだ。また、GEのジャック・ウェルチも言っているが「雇用は会社が与えるものではなく顧客が与えるもの」だ。誤解してはならない。顧客がものを買ってくれなければ会社は存在しえないのだ。

また、今働いている会社にとってお荷物になっているから、クビになっただけで、他の会社では価値があるかもしれない。クビになったことは反省すべきだが、そうやって考えてみれば、どの時点でも再スタートをする勇気が湧いてくるはずだ。

また、逆に会社幹部の経営能力のなさで、事業がうまくいかず、解雇されてしまった場合には、けしてその人が悪いわけではない。
自分で誇れるものを持っていれば、必ずその能力を欲する職場があるはずだから心配いらない。

自分を取り巻く環境がどう変化しても、独立独歩でしっかり生きていける人にのみ、『選択の自由』が与えられるのだ。

それでは、『機会の平等(均等)』とはなんだろう。

それは、アメリカの大学の数学のクラスを受ける一番よく分かる。
一番簡単なクラスを取ると、どんなに今まで数学の勉強が出来なくても再スタートが出来るように、足し算の勉強からスタートする。こんなことは日本ではありえない。

またアメリカの大学では、高校を卒業してから一度会社に勤め、勉強の必要性を感じて勉強をし直す人が多く、いろいろな年代の人がいる。だから、人生経験の豊富な人とも会える機会が多い。
スタートラインをいつでも引き直すことが出来る精神的な開放感に満ちている。

何度でも、そしていつでも再挑戦できる環境。

ところが日本はどうだろう。会社では、『結果の平等』を目指すあまり、安定志向になり、社会全体が「年功序列」…これならまだしも、「年齢序列」になってしまっている。逆に言えば、それからドロップアウトしてしまうと、再起不能ということだ。

これでは、淋しすぎる。
けしてアメリカの考え方が常にベストだとは言わないが、常に希望が持てる国に日本もなってほしいとつくづく思う。

それじゃ!

[2002年2月24日発行]