いじめっ子、いじめられっ子、傍観者
傍観者は、いじめっ子からいじめられないように、距離を置いていたり、同調しているフリをしています。もちろん、傍観者はいじめられっ子に対して、可哀想に…といった感情は持ちますが、結局他人事です。
いじめられっ子は、傍観者に助けを求めていますが、結局誰も知らぬふりで、耐え続けるしかありません。
いじめっ子は、そんな状況を謳歌するように、好き勝手をします。
さて、いじめられっ子が、突然ナイフを持ち出して、いじめっ子を刺したらどうなるでしょう?
傍観者たちは、いじめられっ子が、いじめっ子を撃退したと喜ぶでしょうか?
いいえ、いじめっ子が悪かったはずなのに、傍観者たちはいじめられっ子を責め始めます。
今まで、一度も、いじめっ子を責めたりしなかったのに、いじめられっ子が過激に撃退した途端、意志を持ち始め、今までのいじめっ子の悪行をそっちのけで、いじめられっ子を責める。
それは、ナイフを持ち出すことは「やってはいけないこと」だという共通認識があるからです。こちらが「悪」になれば、相対的に相手が「正義」となってしまいます。相手に「義」を与えるような行為は絶対に控えなくてはなりません。
でも、いじめられっ子は、追い込まれていたのです。
我慢の限界がやってきて、見境ない行動を取ってしまったのです。悲しいことですが…。
このように結局、その破滅的な行動は、傍観者全員を敵(「いじめっ子」)に回してしまう最悪の結果を導きます。
実は、傍観者は気が付かないだけで「若干の味方」なのかもしれません。その「若干の味方」を敵に回してはいけない。
いじめっ子の力は強大ですから、太刀打ちは出来ませんが、傍観者を「より強い味方」にする方策が重要です。
いじめっ子は、傍観者の数に比べると、所詮少数です。
より多くの「若干の味方」と、普段から通じ合う関係を築くこと、それが個人においての『安全保障』上有効なのでしょう。
多くの傍観者の冷たい視線は、想像以上に効果があるものです。
仲間がいないと知ったいじめっ子は、孤独にさいなまれるからです。