コラム

第13話 結果に慈悲なし

すったもんだの留学生活も、あと一学期で終了!

残り15単位を取得すれば、晴れて「ご卒業!」にまで迫った春。「やっと、ここまで来たな~」という感慨と、「最後で気を抜いてしまったら元も子もない」。という緊張感とで、最後の学期を迎えることになりました。

「息を抜くな!息を抜くな!」と、自分に言い聞かせながら、目標であった卒業に向けて「ねじり鉢巻」の意気込みで初日のクラスに望みました。でも、やっぱり不安が頭を過っていました。大丈夫だろうか….。正直、不安で押しつぶされそうでした。

でも、ここでめげてはいけないと、気を取りなおしてちょっとした下心をもって、先生に「オベッカ」を使うことにしたのです。(この辺が、貧乏人のしたたかさですよね。(f^^;))

実は、かつて日本の高校を卒業するときにも同じような経験があり、それを思い出していた私は、「奥の手!」とばかり最後の手段を事前に講じようと考えていたのでした。

あれは、物理II。
当時、青春の真っ只中だった私は、本気で『人生とは?』と息が苦しくなるほど考えていました。「神様っているのだろうか?」みたいなことを必死に考える毎日を過ごしていたのですから、そりゃ成績なんて良い訳が無く、どんどん周りの同級生に勉強の遅れをとり、どうしようもない成績でした。

さらに、高校三年生になる前は、理系に進もうとしていたのを、何故か三年生になってから「文系」に替えたため、これも成績にダイレクトに響いてしまいました。なんせ、受験科目に物理IIや、数学IIIなんてないのにも関わらず、授業だけはきちんとあるのですから、さらに身が入らなかったのです。そんな状況で、高校最後の期末試験。物理IIの成績はもちろん「赤点」。


昔見た青春もののテレビ番組で、「永遠の留年生」「赤点の帝王」と呼ばれる学生がかならずいたのを思い出し、「俺も高校4年生(?)になってしまう!」と、試験勉強をしていなかった「報い」にも関わらず、本当におどおどしてしまいました。

このままでは、大学受験どころではなく、高校卒業も危うい!と思った僕は、最後の手段、「自家談判」(ウ~ン、もしかしたら「拝み倒し」の方が正しい表現かな?)をすることにし、赤いボールペンで本当の「赤い点」がつけられた解答用紙を持って、教員室に入っていったのでした。

冬の日差しがちょっとまぶしい中、先生は東北弁で「どうしたの?」と話しかけてくれました。私は、少しおどおどしながらも、真剣な眼差しで、「あの~、前回の期末試験なのですが、あまり良い成績ではなかったので、エ~、卒業をするのに必要でしたら、補習なり、追試なりさせていただければと思うのですが~….。」と先生に話しかけました。

なんせ、留年なんて思っただけでも頭がクラクラする思いでしたから、なんとかしなくてはならないという、一心でした。しかし、先生は意外にも「大丈夫。心配いらないから。」と言ってくれたのです。そして、なんと通信簿には『合格点』を付けてくれたのでした。私は本当に嬉しくて、今でも先生の厚意には感謝、感謝の気持ちでいっぱいなくらいです。

今になって思うと、学校の成績など人生のほんの一部の出来事でしかないのですが、当時は卒業できるかできないかの瀬戸際だったので、忘れられない出来事として、私の心に深く残っていたのです。

それで、やっぱりこれは先生に「きちんとしたご挨拶をしなければ!」と、クラスの初日の授業が終わった後、部屋から立ち去ろうとする先生を呼びとめて、「こんにちは、先生。このクラスを取れば、目出度く卒業できます。頑張りますので、HELPお願いします。」と話しに行ったのでした。

ところが先生、「こいつ何言ってんだ?」といった顔で、僕に向かって「このクラスは、年に一度しかないクラスだ。それも難しいクラスだ。去年このクラスを取ったある生徒は残念ながら落第してしまい卒業できず、一年間待って今年もこのクラスを受けることになっているんだよ。」…、と説明してくれたのでした。…..(*_*)。

単に「卒業か~、頑張ってね。」くらいの言葉を掛けてもらえるだろうと、甘い気持ちを持っていたので、その先生のあまりにも「冷徹な返事」に面食らってしまい、「とにかく、頑張ります。」といって、その場は立ち去ることになってしまいました。

私は、「…でも普通は言わないよな~、そんな厳しいこと。このクラスが難しいことも、年に一度しかないクラスだっていうことも知っているわ!」。などと、ブツブツ独り言を言いながら、教室を後にしたのでした。

シカシ!
日本の学校は入るのは難しいが、出るのは簡単。そして、アメリカの学校はその逆。…知っていたはずなのに、安易に先生に「オベッカ」を使いに行った私が悪かったのだと、落ち付いて考えてみると理解できたのです。結構、心にズシンときたのですが、その先生の言葉が私をもっと真剣にさせたのですから、ありがたい一言だったと、後になって思いました。

それから、このシビアさは他の授業でもありました。

それは世界史のクラスです。
世界史は、日本でもちろん勉強していましたから、全く始めてのことを習うわけではないのですが、理科系とは違い、ごまかしが効きません。クラスに付いていくには、それなりの「英語力」が必要です。以前、留学して半年ほど過ぎた頃に、何気なく「アメリカ史」のクラスを取ったことがあり、それでとんどもなく苦労をしたことがありました。結局、あえなくそのクラスをドロップ(その授業を受けないことにすること)した経験があったのです。

ですから、留学を希望する人で、私みたいに記憶力があまりなく、英語力もない人は、この種の英語力を必要とするクラスを取るのは、かなり英語に自信がついてからの方が無難だと思っています。(アドバイス!(f^^;))

いずれにせよ、卒業するためには、その世界史をクリアしなければならないのです。テキストは厚さ10cmほど。使用する部分はそのテキストの後半、つまり約5cm。さらに、その先生は、授業中一切そのテキストを開かず、黒板にも一切何も書かない人で、あごに髭を伸ばし、いかにも『大学の教授』って感じの人でした。

クラスには毎回、”Good morning!”と、「グ~」の部分を強調する口調で入ってきて、教壇の机の上にお尻を乗せて、膝を組みながら、まるで自分がその歴史の舞台にでもいたかのように、雄弁に一時間びっちり話をしていました。

でも、その先生、なかなか話しは面白いし、日本の受験用授業とは異なり、豊富なエピソードを含んでいたので、勉強自体は楽しかったのです。ただ、如何せんノートを取るのがめちゃくちゃ大変でした。

下手にノートを取ることに集中してしまうと、先生の話しを聞き逃してしまうし、かといてノートが取れないようでは後で復習することができない。あれこれ迷って、仕方なしに、たまたまクラスの隣に座った女性にノートを貸してくれるように頼んだのです。彼女は、一応OK!と言ってくれて、始めの数日間は図書館に行ってノートをコピーさせてもらうことができました。

でも数日後に、その女性が厳しい顔をして、「あなたは、4年生でしょ!4年にもなって自分でノートが取れないなんて、どうしようもないじゃない?!」と、言ってきたのです。私は、その言葉でかなりショックを受けましたが、反面「なるほど、ごもっとも!」と、その女の子が言っている通りだと思い、それを最後に、他力本願ではなく、自分の力でこのクラスの単位を取ることにしました。

それ以後、毎回カセットテープを持ちこんで、クラスでは先生の話しを理解することに集中し、その後図書館に行ってそのテープを再度聞きなおしながらノート作成をしました。これが結構大変でした。授業では、大まかなポイントだけをノートに書き込み、そのポイントを整理するために適度なスペースをノートに残しておきます。クラス終了後、図書館でテープを聞きながら、復習を兼ねてそのノートの空白部を埋めて行くのです。

当時持っていたテープレコーダのマイクの質があまりよくなかったせいもあって、聞きずらいところもあり、1時間のクラスを大体2~3時間かけて復習しました。しかし、これだけ頑張っても、やはりバカはバカなのでしょう。期末試験で100問の内79問の正解しか出来なかったのです。つまり、79点。あと1問できれば、ぎりぎりセーフのB。しかし、たった一問でも結果としてはCとなってしまうのです。

そこで、やっぱりそのときも先生に泣きに行きました。
「私は、毎日2~3時間も使って勉強をしてきた。しかし、英語のハンディーがあるため、どうしても良い成績をとることができなかったのです。その辺を考慮してもらってBにしてもらえませんでしょうか?….」と、10分近くどれだけ勉強を一生懸命やったかを力説しました。

しかし、先生の答えは「NO」。
一生懸命頑張ったことは認めるけど、CはCだから….。

ナ、なんと無慈悲な!私は叫びたかった。もちろん、試験の結果通りの成績だけど、あと一問だよ、あとたったの一問。これで、GPAがどれだけ影響を受けたか。世の中は、本当に厳しいものだとつくづく感じたましたね。でも、それが現実ってもんでしょうからね。気を引き締めよう!ネ(^^)v

[1999年12月30日発行]