コラム

第60話 転校

アメリカでは、大学でさえ転校が可能だ。
だから、始めから名門の大学に入らなくても、小さめの面倒みのいい大学に入学して、英語力がついた段階で、有名な大学に転校することもできる。

今世紀最後のこのマガジンでは、私の「転校のエピソード」を紹介したいと思う。ためになるかどうか分からないが、やる気になればなんとでもなる!という証拠の一つとして参考にしてほしい。

******

始めに通っていた大学は、とても小さな大学で小高い山の上に建っていた。アメリカの大学というと、UCLAのように広大な敷地で、学内をバスが走っているイメージだったので、初めて訪れたときはちょっと拍子抜けしたほどだった。

大学にはもちろん寮が完備されていたが、部屋の中は学生寮らしく、ガラ~ンとして、作りつけのスプリングの悪いベットと、これも作りつけの机がそれぞれ2つづつあった。

しかし、古くからある名門(?)の大学だったらく、聞くところによると、あの「風と共に去りぬ」のスカーレットオハラのおばさんが通って行っていた大学らしい。(どなたかお持ちの本を確認してくれるとありがたい (^^;) 。大学の名前は、LaGrange College。当時は女子大学。)

少なくともその大学はアメリカでは古くから数えて何番目と言われる大学の一つだったらしい。(私にはあまり興味がなかったので全部他の人から聞いた話… (^^;) )

何度か書いたが、そこでの私の学生生活はお世辞にも「まじめな学生」とは言えなかった。留学生ならず、遊学生状態の「怠惰な生活」をしてしまっていた。

成績はがた落ち、留学の目的の一つである英語でさえ、まともにしゃべれるレベルになかった。今思い出しても親に申し訳けなく思ってしまう。

約1年3ヶ月ほど、その大学の寮にいたことになるが、その学校での最後の学期なんて、成績がなんとDとF。つまり、平均以下が1科目、落第が1科目。さらに、それ以外に途中で一つクラスをドロップしていた。
(以前は、D,D,Fと書いたがよ~く思い出してみると、もっと酷かった(-_-;)。

『学費の無駄遣い』以外の何物でもない。その上、残してはいけない「実績」まで作ってしまった。

日本にいたときは、口うるさくても面倒をみてくれた親がいた。しかし、留学先のアメリカでは誰も面倒を見てくれない。親元から離れ、まったくの自由の身になったとき、できると思い込んでいた『自立』が実はできなかった….それが原因だ。

「自分をコントロールする術」を知らずに、どんどん深みにはまっていった。知らず知らずのうちに自分の道を見失ってしまっていたのだと思う。

ただ、これは私だけに限らないようだ。周りを見てみると、大なり小なり留学して『一人前』になるまで、それぞれ苦労しているみたいだ。
これを読んで留学を考えている人は、その迷走の期間をできるだけ短くさせるように、理想と目的を心に抱いて学生生活をおくることをアドバイスしたい。

当時を分析してみると、その怠惰な生活の一つの理由は、人間関係だった。それも、最悪なことに他の日本人留学生との人間関係だ。幸か不幸か、私は多くのいい人日本人留学生に囲まれていた。しかし、そのため、逆に「日本人コミュニティー」での生活にどっぷり浸かってしまっていたのだ。やはり、日本人は同じ文化の日本人と付き合っていた方が楽だし、安心できる。私はその「甘え」の中で生活していたのだった。

もちろん、そんな環境にあってもまじめに勉強をして、優秀な成績で卒業する先輩だっていたが、私はその「甘い環境」に染まってしまって、どんどん坂道から転げ落ちてしまった。

現在のアメリカへの留学は、私のいたころよりももっと敷居が低くなっているように思える。当時、一ドル260円だったころと比べれば、今ではその半分以下で行けるのだから、とてもうらやましい限りだ。

しかしその反面、当時に比べてさらに多くの日本人が留学していることになるから、君が考えている以上に多くの日本人を留学先の学校で見かけると考えた方がいい。

大体私がいたころだって、ほとんどどこの大学でも日本人はいたのだから。ましてや、寮になんて入るとその『日本人人口密度』たるやすごいもので、気持ちをしっかり持たないと、楽な方に流されてしま
う。同じ日本人同士の方が絶対に楽だからね。

「そんなの当たり前だろ!私には関係ない!」と思う人も多いとは思うが、私だって出発前まで同じように考えていた。でも、その安楽さに負けてしまった。

だから、これは「忠告」だ。日本人とどうやって付き合って行くかで留学の成果が異なってくる。楽だからといって「ベッタリ」とした付き合いは絶対に止めよう!

******

毎日が心の葛藤だった。先への不安ではなく、自分の不甲斐なさへの失望だ。

どうしよう、どうしよう、…。

そんなある日、フッと思いついたのが「転校」だった。
新しい大学に転校して、そこで再スタートしよう!と思い立ったのは、最悪の成績表を手に入れた次の日。2年目の冬だった。

その日の朝、私は珍しくきちんと朝起きて、真っ青な空と、冷たい空気の中、ジョージア州のコロンバスへと車を走らせた。太陽がまぶしく、目を細めながらの運転だった。もちろん理由は、そこにある大学へ転校に関する話を聞きに行くためだった。

思い立ったら吉日と、早速行動に移したのだった。

LaGrangeから車で1時間半ほどのところにある隣町のColumbusは、何度か買い物や友人の家へ遊びに行ったりしたことのある、軍の基地のある街だった。

街に入るとすぐにハイウエーの左側に、Columbus College(現Columbus State University)のサインが見える。何度か通ってその場所は知っていたが、訪問するのはそのときが初めてだった。しかし、不思議と道を間違えずに、キャンパスにたどり着くことが出来た。

大学の案内図を見つけ、そこに書いてある「Administration」の文字を目指して、オフィースの扉を叩いた。その扉はガラスでできていたので、中に女性がタイプをしていた様子が見えたが、扉を叩く音に気づいてくれ、中に入るように笑みを浮かべてくれたのを覚えている。

オフィースの中にはいると、その女性は私に「May I help you?」と丁寧に話しかけてくれた。私は必死になって、私の現状を説明した。

私は今、他の大学に通っていること。その大学では、日本人の世界の中でしか生活することが出来ず、勉強に力も入らず困っていること。英語力はまだないが、一生懸命勉強する意思があること。そして、この大学に転校したいこと。….。等々、闇雲に話し続けた。

マジ、必死だった。なんとか活路を見出そうとしていた。

しばらく、その女性は優しい笑みを浮かべながら話しを聞いてくれた。
そして、私の話しを聞き終わったら、なんと「この大学に入れてあげる」と言ってくれたのだ!!

私はその言葉が信じられなかった。
確かに私は必死になって状況を説明したが、それは私側の理由でしかなく、大学がそれを聞いたからと言って、すぐに私の転校にOKしてくれるなんて思いもよらなかった。私は「もしかしたら、聞き間違いかもしれない。」と、「本当にいいのか?何か条件はないのか?」と聞きなおした。

しかし、彼女は大丈夫だ、心配するな。と言ってくれた。
もちろん、留学生は英語力のチェックが必要だから、入学後留学生用の英語のクラスを受けることになるが、それは入学してからのこと。
また、TOEFLに関しても質問したが、既に他の大学で勉強しているので、その留学生用の英語のクラスで単位さえ取れれば特に他に規定はないとのことだった。

私は、急に道が開けたような気持ちがした。
嬉しかった!本当に。

その後、彼女に手続きについて質問をしたところ、来学期の受け付けは「明日」が最終日だから、明日までに必要書類を持参するように指示された。つまり、『今日この瞬間』に私が話しを聞きに来なかったら、来学期からの転校は出来なかったのだ!

私は、この話を聞いた瞬間「神様」の存在を信じた。
神様が道を示してくれたのだと、本当に思った。あとは、私が一生懸命勉強するだけだ!

私は、ありがとう!ありがとう!!!と何度も言ってその席を立った。

その日に、とんぼ返りした私は、早速今まで行っていた大学に「転校」するから、必要書類を今日中になんとか準備してくれ!と頼み込んだ。イヤミでも言われるんじゃないかとちょっとヒヤヒヤしたが、意外にすぐに書類を準備してくれて、とにかく準備は完了した。

その晩、明日必要な書類が本当にこれだけか、心配で心配ですぐに寝付かれなかった。

翌日も早朝一番、同じルートで大学に赴き、昨日あった女性に「言われた通りの書類を準備したが、本当にこれだけか?もし、他に必要な書類があるなら、すぐに戻って取ってくるから…。」と心配げに質問した。しかし、その女性はニッコリ笑って「大丈夫これで全部だから」。と言って、その場で転校の書類を受理してくれた。

ホッとした。

しかし、私にはこれから超えなければならない別の問題があった。それは、「住むところ」と「バイト先」だった。

この大学は、寮を持っていない大学だった。だから、日本人学生がほとんどいない。その分、前の大学と同じ道を歩むことがなかった反面、住むところを探す必要があったのだ。

また、親からの仕送りは限界だったから、今まで以上に掛かる分のお金は全部自分で稼がなければならなかったのだ。もちろん、それが違法行為であることは知っていたが、現実多くの留学生がアルバイトをしていたので、特にその点は気にしていなかった。

しかし、私にはなんの「当て」もなかった。
でも、これが不思議と不安はなかった。心配しているよりも、行動が先にでていた。

そこで、私がまずしたことは、電話帳のある公衆電話を探すことだった。
もちろんバイト先を探すためだ。公衆電話を探すために、カフェテリアへ足を運んだところ、たまたま掲示板に「部屋貸します」の張り紙がしてあって、一月$145と書いてあった。本音は、もっと安い部屋を探したかったのだが、探し方も分からなかったし、とにかくその張り紙にあった電話番号に電話を
掛けた。

おばさんは、すぐに電話にでた。
私は、「日本人の留学生で、掲示板の部屋貸しますの張り紙を見たのですが、部屋を見せてもらえますか?」と尋ねた。外国人からの電話なので断られるかと不安だったが、おばさんはすぐにOKの返事をくれた。そして、住所を電話の向こうで読み上げるように丁寧に伝えてくれた。Cushing Drive。今でも
忘れない通りの名前だ。その上始めてだからと、道順まで分かりやすくゆっくり教えてくれた。始めて行く場所で心配だったが、おばさんの説明は完璧で、まったく迷うことなく着くことができた。

その部屋を貸してくれる家は、大通りからちょっと入ったところにあった閑静な住宅街にあった。あまり大きな家ではなかったが、丘陵の地形を生かして前から見ると一階建てだが、実際には2階建ての構造になっていた。

私は車を家の前に停め、緊張しながらベルを鳴らした。すると、中からめがねを掛けた60歳過ぎくらい(年齢不詳)のおばさんがドアを開けてくれた。
元気そうにニコニコしながら向かえ入れてくれたおばさんは、とても優しそうな人で、私に向かって(私の出身の)横浜にも、ご主人が軍隊に居た関係上、第2次世界大戦終了後進駐軍として住んでいたことがあると話してくれた。

ドアを開けると、目の前にちょっとした階段があってその壁に聖書の文字が書いてあった。なんて書いてあったかは記憶にないが、神様の御導きのような気がしてその家の中に入って行ったのを記憶している。

おばさんは、すぐに私を部屋に案内してくれた。
話しによると、今まで娘が住んでいたがボーイフレンドと生活することになって一部屋空いたから、部屋を大学生に貸すことにしたと話していた。また、ご主人が大学で勉強をすることになったから、大学の掲示板に部屋の紹介をしたと話してくれた。

部屋は、日本的に言ったら6畳ほどで、ダブルベットがほとんどのスペースをくっていた。カーペットは深緑、白い扉のウオークインクローゼット、それから引き出しのワードロープが二つ、一つは娘さんが鏡台にでも使っていたのか、低めのもので大き目の鏡がその上の壁についていた。

それから、バスルームと居間を見せてくれた。おばさんは、この家には居間が二つあるからこの居間は私が使っていいからと説明してくれた。それから、台所と洗濯機、冷蔵庫も自由に使っていいこと、等々を説明してくれてた。

それにしても、おばさんの様子を見ていると、日本人のどこの馬の骨かわからない学生に、あまりにも親切だったので、私はちょっと戸惑ってしまっていた。本当にこの人は私に部屋を貸してくれるつもりなのか?あまりにも順調に進んでいるので、不思議な気持ちで話しを聞いていた。

いずれにせよ私にとっては、住むところさえあればなんでも良かったので、すぐに「この条件で十分。この週末からすぐに引っ越してきてもいいか?」と尋ねてみた。すると、あっさりとOKと返事をくれた。

しかし、入り口のところにあった聖書の文字が気に掛かり、「でも、私は仏教徒(実際には無宗教に近いのだけど)でクリスチャンじゃない、それでもいいのか?」と質問したら、「神様はどこの宗教でも同じだから気にしなくてもいいのよ。」といってくれた。私は感激した。

これで、家も決まった。でも、金がない。収入を得なければならない。

そのため、また大学に戻って公衆電話に行ってイェローページを開き、「Restaurant」のページを開いた。そして最も広告のスペースを取っているレストランから順番に電話をかけてみた。しかし、時間帯が悪かったのか、いくつかのレストランは誰も出なかった。電話を掛けた2時半頃はどこのレストランもお昼休みなのだ。

数件目でやっと、あるレストランが電話に出てくれた。その電話の向こうではアメリカ人らしき女性がやさしい声で”Golden China, May I help you?”と話してくれた。

私は落ち着いて、留学生でどうしても仕事が欲しい。何でもやるから、お願いします。と電話越しに説明した。すると、マネージャーに私の話しをしているらしい様子が電話越しに聞こえて、とにかく一度レストランに来るようにと言ってくれた。「今からでもいいか?」と言ったところ、良いと返事をもらったので、早速店に出向いた。

レストランの入り口を明けると、中はとても暗かった。丁度昼食のお客さんが帰って、レストランの従業員が食事をし終わったところのようで、テーブルの上は、夕方のレストランの準備のためか、何人かのウエートレスがテーブルナプキンを畳んでいた、ちょっと体の大きな、でもきれいなアメリカ人の女性がニコニコしてこちらを見ていた。多分、この人が私の電話を取ってくれた人だと思い、「さっき電話したものですけど」と自己紹介をしたところ、大きな声をで”Jackson!”と言ってマネージャーを呼び出してくれた。

すると、店の奥の方から、30代前半の中国人マネージャーが出てきた。ニコニコはしているが、ちょっと「つっけんど」な英語で、「仕事がしたいんだって?」と質問してきたので、「一生懸命やりますから、皿洗いでもなんでもやらせてください」。と言ったところ、こりゃまたすんなりと「ウエーターだったらいいよ」。と言ってくれた。

さらに、早速明日から試用期間で様子を見ると言ってくれた。時間は夕方5時から平日は10時、土日は11時まで。蝶ネクタイと、ワイシャツ、それから黒いズボンを自前で準備するように言われた。

日給は一日たった$5!でも、マネージャーはチップが入るから心配いらない。と言っていた。

私は腹のなかで、一時間当たり$1のチップ収入があれば結果的に日本円で時給約520円に相当する。一日5時間労働だから、一日2600円程。週に5日ほど働けば一月で約20倍の5万2千円程度。部屋代が大体$150位だから、約4万円…。
なんとか生活することが出来る!と取らぬ狸の皮算用をしていた。

当時まだ、頭の中はまず日本円に換算してからその「価値」を考える癖があったから、マネージャーの説明を聞きながら生活設計を立てていた。

それに、何もまして食事が出ることが嬉しかった。
毎日自炊するのは大変だったし、かといって外食なんてファーストフードの店に行ける程度のお金しかないわけだから、計算以上のメリットがあると感じていた。学費は親から出してもらっていたから、生活費の目処が立っただけでも気持ちが落ち着いた。

実際に働き始めたら、$20~$30のチップが毎日入ってきたから、大学4年のころには、生活費だけでなく学費もある程度賄えるほどになっていた。

本気でなんとかする気になれば、世の中道が開けるもの。
今でも私はそう信じている。

良い来世紀をお迎えください。

クリスタル

[2000年12月28日発行]