コラム

第15話 旅行 – 初日の出来事

旅立ちに先だって準備したものは、大きめのリュック、ブーツ、手袋、アーミーナイフ、そして安物のダウンジャケット、等。ほとんどすべて「Kmart」で購入した。Kmartは、アメリカのダイエーみたいなところで、野菜や生鮮食品を除けばなんでも手に入るスーパーマーケットだ。

日本では、一体どこが「スーパー」なのかわからない小さなお店でも、スーパーマーケットと呼んでいるけど、初めて本物のスーパーマーケットに行くと、誰しも感動するよね。

さて、北から南まで、真冬と常夏を1ヶ月の間旅行するのだから、荷物は冬が基準になる。だって、夏は脱げばいいのだから、とにかく凍えない支度を中心に揃えた。

出発に際して、学校の先生からは「寝袋」、あと友人からは「ラジオ受信機のついたウォークマンもどき」を借りた。寝袋は、もちろん野宿を想定したもので、「もどき」は、各地域のFMラジオを聞いてみたいと思ったことと、それから、当時流行っていたオリビアニュートンジョンの「physical」の入っていたテープが聞きたかったからだ。…と、いっても当時の機械は電池の消耗が早いため、一日1時間以内と決めていた。

あまりカントリーソングは趣味ではなかったけど、アメリカの演歌に近いものがあるので、ちょっとスローなそして、ちょっと人生の悲しみを歌う曲は、初めて一人旅をするのに、ちょうど合っていた。

出かける際に、パスポートを持っていこうかどうか、考えたけど、盗まれてしまっては大変なので、寝袋を借りた先生にお願いして持っていてもらうことにした。でも、考えてみれば、もしも事故にでもあって、死んでしまうようなことがあっては、自分の身元がわかるものがいるだろう、…と思い、小さなメモを作ることにした。

その紙には、自分の名前、国籍、パスポートの番号、アメリカと日本の連絡先を書いた。

当時、どれだけ怖かったか、これだけをみても判ってもらえると思う。今でこそ、世界中どこにでも一人で行けるぞ!なんて顔をして仕事をしているけど、当時は、半分死ぬ覚悟をして出かけた。

その紙は、なくしてはいけないので、めったに明けないジャケットの腕のポケットにしまい込み、表紙には「自分が死んだ場合の連絡先」と書いておいた。旅行から帰って、このメモをゴミ箱に捨てる瞬間、『無事に帰ってきたんだ~!』と一人で感激してたのを覚えている。

さて、旅立ちの日。
大学の近くの長距離用のバスの停留場に行ったのは、昼の2時ごろだった。天気もよく、雲一つない青空だったが、不安に慄いている私にとっては寂しい冬の景色だった。特に、バスの窓ガラスは紫外線を遮断するためだろうか、中から見た風景はとても暗く「行くんだな~」と呆然としていたのを思い出す。出発は大学のあったジョージア州のラグランジという街。まずは、アトランタを目指していた。アトランタは南部最大の都市で、南部の中継基地になっていたからだ。でも、もちろん、アトランタで宿泊する予算はないから、なるべく夜遅くに出発するバスを選び、翌日の朝到着するバスを探すことにしていた。

この旅行は、親に連絡も、相談もなしに決めたものだった。私以上に心配性な親は、下手に一人で貧乏旅行するなんて言ったらきっと大反対されるだろうと思ったし、何よりも自分で決めたかった。でも、やはり何も連絡をしないのは、親不孝だと思い、この旅行の最中に何通か手紙を書いた。その1通目を書いた場所は、時間を持て余していたアトランタだ。なんせ、一番遅いバスの出発まで約5時間もあったため、それまでの空いている時間に親への手紙を書くことにした。

夕食を取る目的もあって、バス停に隣接しているバーガーキングに入り、ハンバーガーを一個オーダー。なるべく栄養にするために、とにかく小さく噛みきってゆっくり食べた。

封筒は持っていたのだけど、便箋がなかったので、ハンバーガー屋のトレーの裏紙にこれからの行動計画を簡単に書いて、旅先から手紙を書くから心配いらない旨手紙を書いていた。

そのときだ、ふと気がつくと、黒人が目のまえの椅子に座りたいと言ってきた。
私は、OK.とだけいって、手紙を書きつづけていた。彼は何をしているのか不思議に思ったらしく、何をしているんだ?と質問をしてきたので、何気なく、これから旅行に出るので親へ手紙を書いているんだとだけ伝えた。

しばらくは、私も手紙を書くことに熱中していて、彼の言葉にはあまり耳を貸さなかったが、書き終わってその紙を封筒に入れようとしたとき、親しそうに話していた彼が、突然「バス代がないんだ、金をくれ」。って言ってきた。

そのときまで気がつかなかったが、彼の服装はかなり汚く、抱えているものは紙袋。手に持っていたコーヒーカップは、誰が飲んだか判らない飲み終わったものだった。年齢はたぶん20代後半の男。そのときに始めて彼の顔をまじまじと見たら、結構危なそうな顔つきをし始めていた。もちろん、近くのバス代程度なら上げることは問題ない。でも、財布を見せたとたん、全部よこせなんて言われたら大変なことになってしまう。

そこで、お得意の「英語が分からない振り」をして”I don’t understand.”と、ニコニコして言ってやった。すると、ご丁寧にゆっくりと、そしてはっきりとした口調で、しかし低い声で、何度か「バス代がないんだ、金をくれ」。と言っていた。

しかし、だからといって、分かったなんて言えるもんじゃない。クビをひねって分からない振りをしつづけていたところ、今度は具体的な金額を提示してきた。

それはなんと、「25セント」!
はっきり言って、これっぽっち?と思ったが、やはり財布を出したらまずいと思い、仕方なく「トラベラーズチェックしか僕は持っていないから現金はない。駄目だ。」と言ってやった。それが通じたのか、通じなかったのかわからないけど、彼は突然私が今まで手紙を書くのに使っていたペンを取り上げ、ハンバーガーのトレイに敷いてある紙に汚い字で”Geve me 25c.”と書いてきた。

今度は、ものすごい剣幕だ。こりゃ、やばい!
周りにあまり多くの客がいないこの店で、強盗に襲われるのか!!っと、一瞬ヒヤッとした。しかし、その瞬間!なんと、神の助けか警察官が店に入ってきて巡回し始めた。本当に絶妙のタイミング!!

「助かった!」

警察官の影に気付いた彼は、ものすごい剣幕から、突然「満面の笑み」に変わり、お面でも取り替えたのかと思うほど。そして、「ありがとう。良い旅を!」とか言いながら握手をしてきて、そそくさと立ち去っていった。その変わり身に掛かった時間は多分5秒程度。驚きと、緊張と、恐怖感の後、突然訪れた脱力感に私は、しばし呆然としていました。

そして、「やっぱりアメリカは怖いところだな~」と感じながら、ふっと彼の残していった紙を見ていると、Giveとかかれずに、Geveとなっていたことに気がついた。日本の中学生でさえ間違えないような単語のミス。彼の歩んできた人生がどんなものなのかわかりませんが、見ず知らずの東洋人に、25セントの金がないと言わなければならない境遇を考えると、かなり複雑な気持ちになってしまいました。旅立ちの初日から、なかなかショッキングな出来事でした。(^^;)v

[2000年1月13日発行]