コラム

第16話 旅行 – 知らぬが仏

憧れのニューヨーク。摩天楼の世界!!

グレーハウンドのバス停に到着したのは朝だった。まずは宿探しと、YMCAへ直行、数日間の滞在の手続きを済ます。部屋はベットと机だけの小さな間取りだった。かなり古そうで、何度もペンキを塗り重ねたためか壁面が異様にでこぼこしていた。

部屋は高層に位置していたけど、内側(中庭)に面していたため、残念ながら部屋からニューヨークの摩天楼は見ることが出来なかった。見えるのは、ただ、ずーと下にあるロビーの屋根(多分)だけ…。(^^;) 冬だというのに、温水を循環させる暖房が効きすぎていて、窓を空けていないと暑すぎて寝苦しいほどだったのを覚えている。

学生の貧乏旅行、アメリカ全土を旅できる一ヶ月有功のバス定期を購入した以外に、一日10ドルの予算の旅(予備に200ドル程は別に持っていったけどね)。極力お金をセーブする必要があった。しかし、さすがに冬のニューヨークで野宿することは出来ないので、仕方がくYMCAに泊まったのだけど、その分食費を減らすことに注力した。

よって、初日にまず行ったのは、スーパーマーケット。
5、6個が一袋に入っている「青りんご」と、同じような「オレンジ」、それに「食パン」一斤と、その店で一番安い「イチゴジャム」。これが、三日分のニューヨークでの食事。

私のニューヨークでの活動は、地図を片手に名所や、美術館を巡ることだったんだけど、マンハッタンってでかいんだよね。歩くのだけでとても疲れてしまった。高校生のときに、夏目漱石はロンドン留学中に国からの生活費をすべて学術書購入に使ってしまったため、お金が無く、食事は公園に行って「食パンと水道水だけ」という生活を長らくしたという話を聞いたことがある。

冬の夕方、太陽が傾き始めたセントラルパークで、おもむろに食パンを食べた自分が、その夏目漱石のイメージと妙に一致して、寂しいながらも、ちょっとした感動を味わったりした。それにしても、飽食の時代に産まれた人にとっては、「食パンなんて何も付けずに食べたっておいしくないじゃないか?」って思うだろうし、僕もそう思っていたのだけど、他に何も食べるものがなく、体が本当に疲れているときには、たかが食パンでも、されど食パン。

本当に美味しい!
これが、本当に甘い!!こんなに美味しいものだったのか!ってその時とっても感じ入ってしまった。隣のベンチには、浮浪者の叔父さんだろうか、夕日に当たりながらちょっと
背中を丸めている様子が、人生の空しさを感じさせた。

私のニューヨークに関しての知識は、お恥ずかしながら非常にプアーで「自由の女神」、「エンパイヤーステーションビル」、「セントラルパーク」という小学生レベルだった。マ~さらにしいて言えば、ゴルゴ13の『サウスブロンクスという場所は、非常に怖いところ』という程度のものだった。

サウスブロンクスという場所がどこなのか、まったく知らなかったけど、とにかく「サウス」という言葉がついているくらいだから、マンハッタンの「南」が怖いところなんだろうと思い込んでいた。それが素人の浅はかさ、後で怖~い思いをさせられる原因。

たまたま、ガイドブックにニューヨークの動物園が面白いと書いてあったので地図で調べるとセントラルパークの北の方向。北の方なら安心だろうと思い、ニューヨーク動物園を訪れる目的で、とことことセントラルパークを南から北へ突っ切り、一生懸命歩いた。なんせ「北」は安心だと思い込んでいたから、意気揚々!

でも、でっかいよねセントラルパークって、これが人工の公園だなんて思えない。この都会のオアシスがなければきっとニューヨークはもっと殺伐としていたんだろうな~と感じながら、とにかくもくもくと公園の中を進んでやっと北の門にたどり着いた。そこまでは良かったのだけど、公園の外に出た瞬間、雰囲気がガラッと変わったのに驚いた。セントラルパークの南側の摩天楼の華やかな様相から一転して古臭い低層の建物ばかりに変わっていたらからだ。多少の不安はあったものの、『北は安全だ!』と信じ込んでいた私は、地図見て「そこからニューヨーク動物園まで4km」と、とにかく前進することにした。

どんどん進んで行くと、黒人の比率が大きくなってきて、建物も、廃墟みたいになっているものや壊れかけのビルが多くなってきた。ちょっと薄気味悪い。時折、1940~50年代頃にはきっときれいな町並みだったんだろうな~なんて感じさせる、ボロボロの商店街が少し気休めになったけど、街の風景に自分が馴染んでいないのを感じると、背筋が寒くなる思いだった。

歩けど、歩けど、目的のニューヨーク動物園の案内は一向に見えてこない。

不安に駆られながら、それでもセントラルパークから一時間ほど歩いた。でもどの道路にも、、”ZOO”の文字さえない。いくらなんでも、そろそろ動物園は近くにあるはずだ!と、気持ちを奮い立たせてはみたものの、立ち止まって地図を広げる勇気さえない。そんなことをすれば、一発で観光客だってことがわかってしまうからだ。

襲われる!と思うと、歩く速度はどんどん速くなっていった。言い知れぬ恐怖感。

気がつけば、前も後ろも、完璧なスラム街!!
「もう少しで、ニューヨーク動物園、もう少しで….」と進むうちに道に迷ったらしい。「オドオドとした」、なんてもんじゃない。身の危険を感じ、引き返すことも考えたが、もう一度アノ同じ道を1時間かけて逆戻りするなんて恐くてできない。息を切らせ、必死になって歩いていた私は、このまま真っ直ぐ歩いて大きな道に出てバスを捕まえるしかないと判断した。

幸いにも、バス停はすぐに見つかった。どこ行きのバスなんて関係ない、とにかくこの場所から早く脱出することが最大の命題になっていた。あれほど黒人の目が、怖く感じたことはなかった。リッカーストアー(酒屋)の前で何人かでたむろっている黒人たちが、こちらのことジ~と見つめている。真っ黒な肌にドロ~んとした目。

それに、気がつけばその視線は四方八方から感じられた。
ボロボロの団地の窓から、道の反対側から、そして今来た道の方面から、….。本当に、狙われている獲物になった気分だった。バス停に立ち尽くし、平然を装うとすればするほど、ぎこちない動きになってしまう。彼らは何をしてくるわけでもないのだけど、見つめるその「目」が怖かった。

「このままでは殺されてしまうかもしれない!」と感じた私のとった行動は、なんと「空手のマネ」だった。(^^;)自慢じゃないが、運動神経が鈍い私は空手なんて出来るはずもないのだけど、恥も外聞も無く、とにかく『達人』を装って、俺に近づいて見ろ!この鉄剣で打ち倒してやるぞ!とばかりに、一人練習をしていた。(f^^;)東洋の神秘である空手は、黒人の間ではものすごく「憧れ」であると共に、「恐怖」であるらしい。

一度アトランタに遊びに行ったときに、何気なく映画館に入ったところ、香港映画を放映していて、何かというと「復讐(リベンジ)」という言葉が頻繁に出てくるカンフー映画をやっていた。その映画館の9割以上が黒人で、その黒人たちの興奮しきっていること、してること。今になって振りかえると、お恥ずかしい限りだけど、本当にそのときはテレビで見たような「型」をやってみたりしながら、必死になって時間をつぶした。(^^;)ヘヘヘ

でも、5分経っても10分経っても、バスが来る気配がない。空手の達人(?)も、これには参ってしまい。そこで初めて落ち着きを取り戻し、時刻表をみた。

シ、シ、しかし!
そこに書いてあったのは、時刻ではなく、単に”Frequent Service”という一文字だった。ガガガガガ…..、私は、あまりにも驚いてその場で座り込みそうになってしまった。当時の私の英語力と精神状態で、この言葉理解不可能。本来「しょっちゅう来る」と訳すべきなのに、なんとそのときは「たまに来る」にと訳してしまったのだ。

人間、究極の状態には涙なんて出ないもので、なんとも、そのバス停で私はへらへら笑ってしまいました。「神様は私を見捨てた~…」とクラクラしていると、遠くからエンジンらしき音、左側の遠くからバスが見えてきたのです。

「命拾い」とは、こういうことを言うのだと、つくづく感じていました。

バスに乗り、無事にマンハッタンの中心部にまで戻ってきた私は、安堵感でまだ夕方3時だったにも関わらず、そのままYMCAに戻って休むことにしました。本当に、本当に、恐かったのです。

ちなみに、この旅行から帰ってから調べてみたら、その場所は、絶対に行かない!と決めて行った「サウスブロンクス」だったのです。つまり、サウスブロンクスとはブロンクスの南で、マンハッタンの南ではなかったのですね。何たる皮肉!ニューヨーク滞在の初日から、何とも大変な思いをしてしまいました。でも怪我もなく、命もきちんと持って帰ってこれたのだから、やっぱり今となっては笑い話ですよね….。(^^;)v

[2000年1月20日発行]