コラム

第45話 就職活動

アメリカの卒業シーズンは6月。ただ、「卒業式」への参加を気にしなければ卒業自体はどの学期でもできるのがアメリカのいいところだ。ちなみに、私の通っていた大学では、6月と8月に大きな卒業式をやっていた。確かに、就職は4月1日からと考えなければ、いつ卒業してもいいはずだ。

日本も就職することがいつでもできる社会に早くなって欲しいとつくづく思う。確かに大量生産の時代には、求人も一度に大量に入れたほうが企業にとってもメリットがあったのも分かるが、それは単に受け入れのシステムを変えさえすれば済むことだ。日本人の横並びの発想を打破するためにも良いと思うのだが、どうだろか….?

さて、今回は私の就職活動に関して紹介します。
ただ、私の卒業年度は1985年だからどれだけ参考になるかちょっと自信がないが、一つの例として読んで欲しい。先程書いたように、私の通っていた大学は6月と8月に大きな卒業式を行っていたのだが、私はその8月の卒業式に出た。そのため、帰国はそれから1週間ほどしてからの8月末。やっと卒業できたという安堵感と、日本へ帰れる喜び(飯の心配がいらなくなる(f^^;)という意味で….)で、とにかくしばらくはゆっくりしようと思っていた。

当時は、インターネットなんて夢の夢の世界だったから、日本の情報は非常に限られていた。日本の新聞だって、大都会にいたって一日遅れ状態。今のように衛星版なんてなかった。そのため、もちろん日本の就職に関する情報も全く持っていなかった。もともと暢気な私は、就職先は翌年の4月までの8ヶ月、バイトでもしながらゆっくり探せばいいや!と思い、ノホホ~ンとしていた。しかし、たまたまつけたテレビで「青田刈り」なる言葉を初めて聞き、大学4年生はもう8月には就職先がほとんど決まっているっているという事実を知り、冷や汗…(f^^;)、サ~大変!とばかりに、アタフタとし始めたのでした。

久々に畳の感触を楽しんで昼寝が出来たのは、悲しいかなほんの1週間程度となってしまった。シカシ!どうやって就職活動をしたら良いのか皆目見当がつかなかった。(^^;)

就職というと、かなり前(中学生の頃)に大学生のいとこの部屋で見た分厚い会社案内くらいしか思い浮かばなかった私は、まず「104」に電話をし、リクルート社の電話番号を調べてもらい、「その分厚い企業リストを下さい。」と電話をしてみた。しかし、時既に遅し、9月にはそんな電話帳のようなリストは一冊も残っていないとのこと….。(@_@)

当時私は人生観などまともに持ち合わせていなかったので、もちろん社会に出て仕事をする意味や価値に関して何も考えたことがなかった。だから、お恥ずかしい限りだが、「働ければどこでもいいや!」と思っていた。

今になって思えば、働ければどこでもいいなんて非常に安直だったと思う。
自分の人生なんだから、もっと一生懸命考えるべきだったかもしれない。でも、就職をした先輩や、親から「仕事」に関する話でも聞いていない限り、実際はそれは無理かもしれない。いや、たとえ聴いても体験してみないと分からないかもしれない。やっぱり一度社会に出て、働いてみてから自分の道を再度見直すしか手はないのだろう。

初恋の人と結婚はほとんど出来ない…と言われるように、初めて恋をした人と永遠に結ばれるなんてことがほとんどないならば、会社だって同じだ。自分の適性や、やりたいことを探すためにまずは就職する。そして、時間をかけて本当に自分のやりたいことを見極めて、転職するのが一番幸せな人生になると思う。もちろん安直に職を転々とすることには賛成しないが、転職は「天職」に巡り合うために行うって考えてもいいかもしれない。

いずれにせよ、言い訳になってしまうが、留学していたときには、それこそ目の前の勉強だけに気をとられていたし、就職情報も当時はアメリカにいるととても少なかったから、ある程度は致し方ないと自分を慰めたりしている。リクルート社にその就職情報がないことを知った私はその代わりに、本屋さんで見たことのある『会社四季報』を思い出した。たぶん、あそこには会社の連絡先ぐらい載っているだろうと思ったのだ。

会社四季報を手にした私は、すぐさま問題に出くわした。
当時私は外資系の企業に就職しようと思っていたのだが、なんと外資系企業はほとんど載っていなかったし、さらに電話番号さえ書いていなかったのだ。会社の名前だけではどんな会社なのか分からないし、いちいち「104」で電話番号を調べていくのも面倒だったので、結局情報がたくさん載っている「日系企業」に連絡をとることにしてしまった。

そう決めたらとにかく、片っ端から名だたる大企業の代表番号に電話して、「自分は、留学から帰ってきた者だけど、就職活動をしているので、人事部につなげて下さい。」と電話をしまくった。商社、銀行、電機メーカ、証券会社等々、数十件電話をかけまくった。

マ~当時はまだバブル経済の走りだったこともあって、9月中旬になっても、電話した会社のほとんどは、面談OKとなった。ラッキーだったよね。正確な数は覚えていないが、十数社訪問させてもらった。すべての会社に対して「私はこの会社に入りたい!」と切実なる思いを伝え、一生懸命就職活動を展開していった。もちろん、「駄目」の返事をもらった会社もあったが、幸運なことにほとんどの会社がOKの返事をくれた。(^^)v

シカシだ!「どこでもいいや」と優柔不断な気持ちで就職活動をしてしまったために、10社近くからのOKに「さて、どこに入ったら良いだろう?」と迷ってしまったのだ。そこで、やめりゃ良かったのにデパート内にある「占い」のおばさんに自分の就職の相談をしてみた。(f^^;)アホだよね、こんなこと….。

後になって考え直してみれば、「占い」のおばちゃんに騙されたのかもしれないが、とにかく彼女のアドバイスに従った。彼女は、電気関係の仕事が良い。とアドバイスをくれたのだ。

でも、よくよく思い返してみるとそれは当たり前の答えだったのだ。だって、その前に、大学で何を勉強してきたのかを世間話的に答えていたからね。「コンピュータ」を勉強してきたって聞けばどんな素人の占い師でも、そりゃ電気関係が良いって答える….。そうの、こうのしている間に、結局、当時の総合電機メーカトップと呼ばれていた会社に就職先を決定して、他の会社には、「ごめんなさい」と電話を掛けまくった。

でも、ある会社からは、電話の向こうで「君が入りたいと言って来たから、許可したのに、今更辞めるなんてなんて失礼なんだ!そんなこと電話で話すことではないだろう。こちらに来なさい!」とめちゃくちゃ怒鳴られたりもした。そりゃそんな場所に行ったらどんなひどいことを言われるか分かったもんじゃないから、ひたすら謝ったら、最後には電話を切られてしまった。(f^^;)

日本の就職活動の常識って知らないのだけど、理科系の場合は、大学の教授の推薦等で入る場合がほとんどらしく、基本的に私みたいな二股三股と掛け持ちするケースが少ないみたいで、当時会社の人事的常識ではよっぽど「非常識な奴」と見られていたのだろう。この場を借りて、当時のごめんなさいをさせてもらった会社の方々に再度「ごめんなさい」。m(._.)m

職を選ぶということは、とても重要だ。
それに、業種、会社によって給料が全然違う。はじめの数年間はほとんど変わらないように見えるが、それからちょっとするとボーナスが倍半分、違っていたり、入社10年くらいで年収一千万円以上もらえる会社と、まだ600万円しか貰えない会社と、歴然とした差が出てくる。

また、老舗の日系企業の場合、年功序列(私は年齢序列と呼びたい!)だから、出世も給料もまるで「交通渋滞の高速道路」みたいなもんで、ノロノロ。自分のやりたいことを実行に移すにしても、古い体質の組織が新しいことを簡単に受け入れるなんてことが出来ない。業務改善なんて叫んでみても、誰も本気になっていない。だから、私は会社を選ぶ際のアドバイスとして、規模で会社を選んではいけないと言いたい。でかければでかいほど、官僚主義的な発想がどうしても出てきてしまう。中には、大きくても官僚的にならないように、努力している会社もあるが、動脈硬化は避けられない。

たとえば、一つの見方として、公共事業を受け持っている会社は要注意。
あれだけ天下りが批判されていても一向に変化の兆しが見えない「官民の癒着」が日本には存在する。お役人の天下り先リストに載っているような企業は、元気のある人にはお勧めしない、避けた方が無難だろう。そういう官僚体質が会社に染み込んでいるからね。

マ~、君が一生「とにかく食べて行かれればどんな仕事でもしますよ、出世だって、とにかく東大を先頭にしたエスカレータで十分ですよ。」といった考え方を持っているならば別だが、そうでなければ、とにかく「元気のいい会社」を選ぶべきだ。どんどん新しいものを生み出す力が漲っている会社であれば、その会社と共に自分も成長できるし、思う存分自分の力を出すことが出きる。人生は一度きりだ、自分の個性をどんどん伸ばせる仕事を探そう。最後に、就職活動は、『就社活動』じゃないからね。それじゃ!

[2000年8月17日発行]